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ただの日記。たぶん。

36才になった

タイトル通りだが36才になった。

女性の30代は厄年の連続である。酉年の私は数えでは37才の為、今年は2度目の本厄である。

4年前、大厄の年に結婚して、なんと言おうか順調なのは結婚生活だけではないかという気もする(夫がどう考えているかは知らぬ)。

厄年云々を心から信じる程信心深くはないが、30代というのは公私ともに責任を負う役割が振られていき、家庭を持ち子どもを育て社会でなくてはならない役割を担う、ということが求められ、その変化の激しさによって何かが崩れるのかもしれぬ、とは思う。

しかし、私は結婚はしたが子どもはなく、20代(いやむしろ10代...?)とあまり変わらぬ意識で過ごしている。私だけかと思ったが、私がこの人は大人だな、と思う友人の多くは「年齢に追いついていない」という話をしていた。

そんなものなのかもな、と近頃は思う。人はいくつもの面を持っていて(平野啓一郎風に言えば「分人」だろうか)、心理的物理的距離によってその貌を変えるのは当たり前だから。私でさえも一応、きちんとした振る舞いが要求される場所ではそれなりの振る舞いはできる(と本人が思い込んでいるだけかもしれないが)。それを考えたとき、どうしても「大人」にカテゴライズできない自分が残るのだと。

今まで他人に憧れたり嫉妬したり、常に他者との比較の中で生きてきた気がする。アイデンティティを外部の評価に委ねきっていたせいで、自分がどうありたいかなどすっかり忘却の彼方だった。私そんな良い奴でも優しくもないし、価値などないんだ、私を評価しているひとは絶対私の裏面を見落としている。一事が万事この調子だったので、大変生きにくかった。いや今も生きにくい。

しかし、ひとは別に私に対してそこまで要求しちゃいないんだな、ということに、この年にしてようやく、気付き始めた。36年間ずっと、というわけではないが、小学校に上がって集団生活の中で自分は異質だと誠にぼんやり気付き、常に他人の目を気にするようになってしまい、却って周りが見えなくなった。悪循環だ。

要するにありもしない他人の目に縛られて自分とかいう器が空っぽでとにかく埋めようともがいてきた結果が、今の自分だ。

誕生日に毎年豊富のようなものを書いてきたが、なんだかそれも他者へのアピールだった気がする。

だから今年は好きに生きるようにしようと思う。

それで離れていく人がいたらそれまでだ。

...くらい割り切れるほどにはまだなっていないが。

とりあえずアイデンティティを確立したい。

36年生きてきてやっとそこかよと思うと阿呆らしいが、やるしかあるまい。

最近文章がくどくなってきた。映画の感想を書きすぎたせいだ。

最後に渾身のほしい物リストを作ったので覗いていってください。いやむしろ贈り物ください。

今後ともよろしくお願いいたします。