untitled fragments

ただの日記。たぶん。

何事もやり過ぎは良くないという話

映画をよく観に行く。

そもそも、多少は動けるようになったが、生産的なことは全く無理、というときにリハビリとして選択したのが映画だった。東京は映画館(ミニシアターは減ったけど)いくらでもあるし、公開される映画数も半端ないし、外に出るにはちょうど良かった。

しかし悲しいことに、気がつけば映画に追われるようになってしまった。

映画は毎週新作が大量に公開されるが、時間的にも金銭的にも週に3本くらいが限界である。そのうち新作に追いかけられる。なんだこれ。趣味に追われるって。

そしてこの感覚は絶対伝わらないんじゃないかと思うが、あんまり元気がないときに映画館に行くと観る前に帰りたくて仕方なくなる。映画を観に来ているのに映画観たくないという、アンビバレンツもいいとこだろ状態である。

最近は、実は自分は映画そんなに好きじゃないんじゃないかと疑っている。というか、何事もやり過ぎると心が死ぬのでは。その見極めがただ下手なだけなのか。

皆、好きなことで苦痛になったりしないのだろうか。

この辺、完璧主義を拗らせた者の末路という感じがするが、あんまりこの感覚を人と共有できたためしがない。

なのでこうやって書いてみるが、まあ読まれもしないだろうな。


外面の良さ、コミュニケーション、乖離

コミュニケーションが苦手というか嫌いである。大体私は自分が喋ると碌なことにならないと固く信じていて、それは感情の制御が面倒くさいからだ。
世の中には「この場面で言っていいこと」と「言ったら確実に場が冷えて死ぬこと」みたいなのがあって、私の場合すごく頑張ればそれを見極めることはできる。逆に言えば頑張らないとできない。加えて思考の飛躍が激しいので、話をじっと聞いていられない。
そういう訳で私は自分のことを所謂「コミュ障」と認定しているのだが、それを周りに言うと常に否定される。否定というか、「いやいやいや何言ってるの」という趣旨のことを言われる。
これは結構ストレスフルで、じゃあコミュニケーションにストレスを感じている自分て一体...という気持ちになる。自分が認識している自分と、他人が見ている自分との乖離。なんなんですかねこれ。
まあ、私は別に緘黙症じゃないので普通に喋る。飲み会にも行くし、誰とも会わないわけではない。しかしなあ。そうじゃないんだよなあ。世の中にはよく喋るコミュ障は存在しないのだろうか。喋ってるうちにどんどん自分の言葉が上滑りして気持ち悪くてしかたないという感覚はコミュ障じゃないのだろうか。
というまとまらない思考の流れで今日もまた溶けていきそうである。暑過ぎる。毎年夏は来るはずなのに慣れられないのは何故だろう。

生ける屍の夏

先月は確か生きなければみたいなことを書いていたが、この1ヶ月胃腸は壊すわ精神は下降気味だわで半分死んだようになっていた。食は数少ない喜びであるが、食べると吐き気がしてしまうので迂闊に食べられない。結果食べる量がどんどん減って緩やかに体重が減少し始めた。事情が事情なだけにさほど喜ぶこともできない。

全然違う話をする。
最近すごく汚いというか攻撃的な言葉を使うひとが良くも悪くも名を馳せるよなぁと思うようになった。慇懃無礼も含んでもいい。強く、断定的で、相手を見下す言葉を使って一刀両断してしまうやつ。
その事実は正しいのかもしれないが(そもそも正しさなんて存在するのか、と思ってはいるが)、事実の追及というより、相手を罵倒しすぎていて疲弊する文章にWeb上でよくお目にかかる気がする。あれは何がそうさせるんだろうか。文字だからか。即時性か。
「ものは言いよう」というのは意外と大事な概念で、言葉の選び方で議論になるか喧嘩になるかが決まる。最近どんな分野でも喧嘩ばっかりだ。多くないのかもしれないが、目立つのだ。
強い言葉は確固たる信念のもとにあると信じたいので、そういう人は意志が強いんだろうなとは感じる。会えばいい奴だったり。
ただ、一瞬でいいから「本当に自分はここまで言う必要があるのか、それは正しいのか、正しさが全てなのか」考えて欲しい。

こんなことばかり考えるので毎日疲弊している。暑いし。溶けてしまいそうだ。思考が溶けてしまえばいいのに。

生きるしかない

東京に来てから8年経ったので記事でも書こうかな、と思っていたが、思えば8年てものすごく中途半端だな、と思い、まあいいか、と投げていた。
思ったより結構長くいるなあとは思うし、多分余程の事態が起きない限りもう東京を離れて暮らすこともないと思う。あと2年経てば大学時代から新潟で過ごした10年を抜くので、それが節目かもしれない。節目に何をするというわけでもないが。
東京は私にとっては悪いところではなかった。まあ私は住めば都タイプなので故郷への憧憬もあんまりない。というか地元に帰るたびに変化が激しすぎて、落ち着かない。皮肉だが東京にいる方が落ち着くという。薄情な性分である。

そしてまともに働かなくなってから3年である。意外と社会復帰への道程は遠かった。いや、社会にコミットしていない訳ではないので、今さら働くという形で復帰しなくても、とは言われることもある。まあそれもひとつの道かもしれない。
しかし、私は家事が壊滅的に駄目なので、専業主婦というものができない。努力でなんとかなれば良いのだが、もう諦めた。人間無理なもののひとつやふたつあったっていいじゃない。
勿論ひとりじゃないので諦めたら色々大変なのだが、でもなあ。やればできるというのはなかなかに詭弁で、人間向き不向きがあると思うのだ。私は家事が向いていなかった。それは生活には多大な影響を及ぼしはするが、究極、逆上がりができないとかそういうのと同じことだ。

延々と言い訳を書いてしまった。

しかし、どう働けばいいのかさっぱりわからない。働く試みはしたが、自分で自分を追い込んでしまい、比喩でなく死にそうになって辞めてしまった。周囲が嫌だとかそういうのではなくて、とにかく追われている感じが抜けないのだ。人と一緒に働いていると特に。Slackが特に駄目だった。チャットツールで死ぬ思いをするとは正直思わなかった。しかしよく考えたらグループLINEとかも苦手だった。何のことはない、気軽な文字のやり取りが流れゆく様が苦手だったのである。
そんなこんなで、働く選択肢がどんどん狭まっていって今に至る。仕事をしていたこともあったから、ある程度の事務仕事やら手配やらはできるという気持ちがあるが、誇れる技術もないし、コミュニケーションが駄目になってしまうともう駄目だ。参った。
こういう状況でもできる仕事ってあるのだろうか。

こうやって延々愚痴のブログ記事を書いても特に誰か何か言ってくれる訳でもないけど、とりあえず記録として残しておこうと思う。何はともあれ生きるしかない。

36才になった

タイトル通りだが36才になった。

女性の30代は厄年の連続である。酉年の私は数えでは37才の為、今年は2度目の本厄である。

4年前、大厄の年に結婚して、なんと言おうか順調なのは結婚生活だけではないかという気もする(夫がどう考えているかは知らぬ)。

厄年云々を心から信じる程信心深くはないが、30代というのは公私ともに責任を負う役割が振られていき、家庭を持ち子どもを育て社会でなくてはならない役割を担う、ということが求められ、その変化の激しさによって何かが崩れるのかもしれぬ、とは思う。

しかし、私は結婚はしたが子どもはなく、20代(いやむしろ10代...?)とあまり変わらぬ意識で過ごしている。私だけかと思ったが、私がこの人は大人だな、と思う友人の多くは「年齢に追いついていない」という話をしていた。

そんなものなのかもな、と近頃は思う。人はいくつもの面を持っていて(平野啓一郎風に言えば「分人」だろうか)、心理的物理的距離によってその貌を変えるのは当たり前だから。私でさえも一応、きちんとした振る舞いが要求される場所ではそれなりの振る舞いはできる(と本人が思い込んでいるだけかもしれないが)。それを考えたとき、どうしても「大人」にカテゴライズできない自分が残るのだと。

今まで他人に憧れたり嫉妬したり、常に他者との比較の中で生きてきた気がする。アイデンティティを外部の評価に委ねきっていたせいで、自分がどうありたいかなどすっかり忘却の彼方だった。私そんな良い奴でも優しくもないし、価値などないんだ、私を評価しているひとは絶対私の裏面を見落としている。一事が万事この調子だったので、大変生きにくかった。いや今も生きにくい。

しかし、ひとは別に私に対してそこまで要求しちゃいないんだな、ということに、この年にしてようやく、気付き始めた。36年間ずっと、というわけではないが、小学校に上がって集団生活の中で自分は異質だと誠にぼんやり気付き、常に他人の目を気にするようになってしまい、却って周りが見えなくなった。悪循環だ。

要するにありもしない他人の目に縛られて自分とかいう器が空っぽでとにかく埋めようともがいてきた結果が、今の自分だ。

誕生日に毎年豊富のようなものを書いてきたが、なんだかそれも他者へのアピールだった気がする。

だから今年は好きに生きるようにしようと思う。

それで離れていく人がいたらそれまでだ。

...くらい割り切れるほどにはまだなっていないが。

とりあえずアイデンティティを確立したい。

36年生きてきてやっとそこかよと思うと阿呆らしいが、やるしかあるまい。

最近文章がくどくなってきた。映画の感想を書きすぎたせいだ。

最後に渾身のほしい物リストを作ったので覗いていってください。いやむしろ贈り物ください。

今後ともよろしくお願いいたします。

僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意

 

 

佐藤優氏の読書本といえば「読書の技法」があるけれど、本書は池上彰氏がいる分若干ソフトな作りになっている気がする。

 

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 

でも要求しているハードルは中々に高い。

まあ池上彰氏も佐藤優氏も「自分たちのやってることを完全にトレースする必要はない」ということを何回も言っているので、できる範囲でやれば良いんだろうとは思いつつ。

自分を省みていえば、

新聞は全然読んでいない。彼らはやはり新聞を重要なソースと言いそれは間違いないと思うのだけれども、新聞を定期購読するのは意外とハードル高いんじゃないかという気もする。

私は情報収集を専らRSSに拠っているので確かに偏りはあるんだろうなあと思う。RSSのフィード自体(色々調整しているつもりだけれど)自分が選んだものになっているからその時点で入れる情報が自分に近いものになっている事は否めない。自分が目に留める記事ははてブホッテントリになることも多いので(もしくは既になっているので)自分の目にはてなブックマークというフィルタがかかっている感もある。やはり新聞は読むべきかもしれない。

大きく分けて新聞、雑誌、ネット、書籍、教科書の読み方が論じられており、それぞれ納得できて学びを得られる本だと思う。

しかし両名ともネットに対しては消極的な感じだな、ということを思った。確かに玉石混交だし時間泥棒でもあるとは思うのだが...それだけ慎重にならざるを得ないのが今のインターネットなのかもしれない。ネットは上級者のメディア、という事は心に留めておきたい。

雑誌に関しては佐藤優氏がdマガジンを使っていると述べている。私自身も先日登録してみたが確かにこれだけ読めるなら相当便利だと感じる。もう少し使ってみて感想を述べたいと思う。

 

こういう本は読んで「頑張ろう」と思うだけで終わってしまうことが多いのだが、多少は実践していきたい。多少は。

2017年をどういう年にするか

今週のお題「2017年にやりたいこと」

あけましておめでとうございます。

お題は、「2017年にやりたいこと」なのだが…。

これを為したいということが特にない。困った。

こうありたい、というものはある。

計画的な行動、思考の記録

割に行き当たりばったりな生き方で躓くことが多かったので、計画立った行動をするように心がけたい。

具体的に言うと手帳を使いこなせるひとになりたい。

私は手帳やノートの使い方が壊滅的に下手くそである。今はさすがに大まかなスケジュールはGoogleカレンダーで管理するようになったが、その前は書き出すこともなくほぼほぼ脳内でスケジュールを回していた。今思うと恐ろしい。

手帳にせよノートにせよ書き留めておくという習慣がなく、自分がふと考えついたことやら本の感想やら映画の感想が脳内から普通にこぼれ落ちていってしまう。

今年は自分をきちんと管理したいものである。

映画をたくさん観る

上昇期に入った10月下旬頃から映画を観に行くようになった。映画館での程よい緊張感が心地よいと感じられるようになったのは収穫だった。

今年は100本とまではいかないが、できる限り映画館で映画を観たいと思う。

本をたくさん読む

昨年は本によるインプットが途中で挫折してしまいほとんどできなかった。今年はできる限り読んでいきたい。

結論

今年は、インプットを増やして人生プランを立て直す年なのだと定義づけている。焦ることもあるし、暴走しそうになるときもあるかもしれないが、とにかく地道に進んで生きたいと思う。

 

2017年もよろしくお願い致します。