人混みこわい
人に酔った。
家ではまったく集中できないのでちょっと出かけて作業するか、と思いなぜかスタバに行ってしまった(本当になぜスタバに行ってしまったのか...)。
大体において都会のスターバックスというのは混んでいる。よくわからないが混んでいる。行ったスタバも混んでいた。満席ではなかったが、人の話し声がきびしい(私は聴覚がやや過敏である)のと空調が人口密度に負けてる程度には混んでいた。
それでも頑張って席に座ったのだが、「席を動いてもらえませんか」と言われて心がぽっきり折れてしまい(言った人は全然悪くない。私が既に行儀よく振る舞える精神力を喪失していただけ)、結局滞在時間5分で脱出し、猛烈な吐き気に襲われた。
しかしあの程度の人混みで神経が潰れるのはかなり危険だ。最近満員電車でも吐きそうになるのだが、このままでは東京で暮らせないではないか。
真剣に田舎暮らしを検討すべきなのだろうか...。
生きるのは難しい
どう考えても周りの人より活動量が少ない。
私も社会人活動をしていたはず(遅刻はしたことがない)のに1日平均的に活動量が持続しないのだ。
今日は糸が切れたかのように3時間寝ていた。
しかし眠りも浅いので、起きてすっきりという感じが全くない。
結果、人より活動量が少ないのにいつも疲れている。
加えて最近、SNS疲れが顕著になってきた。
スルー力が足りないので、少しでも引っかかる発言を見るたびに考え込んでしまい、しかし反論したりする度胸はないので、どんどん心に澱がたまる。
世間との接触を絶って隠遁するしかないのかもしれない。
生きづらいものだ。
- 今読んでる本
- 作者: 宮岡等,内山登紀夫
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2013/05/17
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書くことがない
またブログを放置していた。
しかし、書くことがない。映画の感想はFilmarksに書いてるし(同時にKINENOTEにも映画.comにも投げてある)、本はたまにしか読んでないし読んだらブクログに投げるし、ちょっと長い近況報告はFacebookに書けばよく、ふと思いついたことはTwitterに書けばよい。
要するにブログで書くほどの事は何もなかったのである。はい終了。
...で終わるのもなんだから少し続けてみる。
が、私にはそもそも文章力がなかった。書きたいという欲求も小学生くらいで潰えた。あるのは多分書きたい欲求ではなくて承認欲求である。
そんな人間でもブログを持てる時代。誰でも気軽に情報発信ができるようになった結果、情報が溢れて何がなんだかわからなくなったこの世界。
色々面倒だなあと思う。どうせ書いたって誰も読まないのだ。読まれないならWebに公開する意味もないし、なぜブログをやっているのか。
話が堂々巡りしてきたが、こういう訳のわからない感情みたいなものを置いておけばいいのかもしれないな、と今思った。
まあいいや。捨てるのも勿体ないので気が向いたら書こうと思う。
ちなみに今日は映画を2本観て本を1冊読んだ。よく気力が保ったなと思う。世の中の人はどれだけの精神力で生きているのであろうか...。
観た映画
読んだ本
- 死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相
死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相
- 作者: ドニー・アイカー,安原和見
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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- メディア: 単行本
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何事もやり過ぎは良くないという話
映画をよく観に行く。
そもそも、多少は動けるようになったが、生産的なことは全く無理、というときにリハビリとして選択したのが映画だった。東京は映画館(ミニシアターは減ったけど)いくらでもあるし、公開される映画数も半端ないし、外に出るにはちょうど良かった。
しかし悲しいことに、気がつけば映画に追われるようになってしまった。
映画は毎週新作が大量に公開されるが、時間的にも金銭的にも週に3本くらいが限界である。そのうち新作に追いかけられる。なんだこれ。趣味に追われるって。
そしてこの感覚は絶対伝わらないんじゃないかと思うが、あんまり元気がないときに映画館に行くと観る前に帰りたくて仕方なくなる。映画を観に来ているのに映画観たくないという、アンビバレンツもいいとこだろ状態である。
最近は、実は自分は映画そんなに好きじゃないんじゃないかと疑っている。というか、何事もやり過ぎると心が死ぬのでは。その見極めがただ下手なだけなのか。
皆、好きなことで苦痛になったりしないのだろうか。
この辺、完璧主義を拗らせた者の末路という感じがするが、あんまりこの感覚を人と共有できたためしがない。
なのでこうやって書いてみるが、まあ読まれもしないだろうな。
外面の良さ、コミュニケーション、乖離
コミュニケーションが苦手というか嫌いである。大体私は自分が喋ると碌なことにならないと固く信じていて、それは感情の制御が面倒くさいからだ。
世の中には「この場面で言っていいこと」と「言ったら確実に場が冷えて死ぬこと」みたいなのがあって、私の場合すごく頑張ればそれを見極めることはできる。逆に言えば頑張らないとできない。加えて思考の飛躍が激しいので、話をじっと聞いていられない。
そういう訳で私は自分のことを所謂「コミュ障」と認定しているのだが、それを周りに言うと常に否定される。否定というか、「いやいやいや何言ってるの」という趣旨のことを言われる。
これは結構ストレスフルで、じゃあコミュニケーションにストレスを感じている自分て一体...という気持ちになる。自分が認識している自分と、他人が見ている自分との乖離。なんなんですかねこれ。
まあ、私は別に緘黙症じゃないので普通に喋る。飲み会にも行くし、誰とも会わないわけではない。しかしなあ。そうじゃないんだよなあ。世の中にはよく喋るコミュ障は存在しないのだろうか。喋ってるうちにどんどん自分の言葉が上滑りして気持ち悪くてしかたないという感覚はコミュ障じゃないのだろうか。
というまとまらない思考の流れで今日もまた溶けていきそうである。暑過ぎる。毎年夏は来るはずなのに慣れられないのは何故だろう。
生ける屍の夏
先月は確か生きなければみたいなことを書いていたが、この1ヶ月胃腸は壊すわ精神は下降気味だわで半分死んだようになっていた。食は数少ない喜びであるが、食べると吐き気がしてしまうので迂闊に食べられない。結果食べる量がどんどん減って緩やかに体重が減少し始めた。事情が事情なだけにさほど喜ぶこともできない。
全然違う話をする。
最近すごく汚いというか攻撃的な言葉を使うひとが良くも悪くも名を馳せるよなぁと思うようになった。慇懃無礼も含んでもいい。強く、断定的で、相手を見下す言葉を使って一刀両断してしまうやつ。
その事実は正しいのかもしれないが(そもそも正しさなんて存在するのか、と思ってはいるが)、事実の追及というより、相手を罵倒しすぎていて疲弊する文章にWeb上でよくお目にかかる気がする。あれは何がそうさせるんだろうか。文字だからか。即時性か。
「ものは言いよう」というのは意外と大事な概念で、言葉の選び方で議論になるか喧嘩になるかが決まる。最近どんな分野でも喧嘩ばっかりだ。多くないのかもしれないが、目立つのだ。
強い言葉は確固たる信念のもとにあると信じたいので、そういう人は意志が強いんだろうなとは感じる。会えばいい奴だったり。
ただ、一瞬でいいから「本当に自分はここまで言う必要があるのか、それは正しいのか、正しさが全てなのか」考えて欲しい。
こんなことばかり考えるので毎日疲弊している。暑いし。溶けてしまいそうだ。思考が溶けてしまえばいいのに。
生きるしかない
東京に来てから8年経ったので記事でも書こうかな、と思っていたが、思えば8年てものすごく中途半端だな、と思い、まあいいか、と投げていた。
思ったより結構長くいるなあとは思うし、多分余程の事態が起きない限りもう東京を離れて暮らすこともないと思う。あと2年経てば大学時代から新潟で過ごした10年を抜くので、それが節目かもしれない。節目に何をするというわけでもないが。
東京は私にとっては悪いところではなかった。まあ私は住めば都タイプなので故郷への憧憬もあんまりない。というか地元に帰るたびに変化が激しすぎて、落ち着かない。皮肉だが東京にいる方が落ち着くという。薄情な性分である。
そしてまともに働かなくなってから3年である。意外と社会復帰への道程は遠かった。いや、社会にコミットしていない訳ではないので、今さら働くという形で復帰しなくても、とは言われることもある。まあそれもひとつの道かもしれない。
しかし、私は家事が壊滅的に駄目なので、専業主婦というものができない。努力でなんとかなれば良いのだが、もう諦めた。人間無理なもののひとつやふたつあったっていいじゃない。
勿論ひとりじゃないので諦めたら色々大変なのだが、でもなあ。やればできるというのはなかなかに詭弁で、人間向き不向きがあると思うのだ。私は家事が向いていなかった。それは生活には多大な影響を及ぼしはするが、究極、逆上がりができないとかそういうのと同じことだ。
延々と言い訳を書いてしまった。
しかし、どう働けばいいのかさっぱりわからない。働く試みはしたが、自分で自分を追い込んでしまい、比喩でなく死にそうになって辞めてしまった。周囲が嫌だとかそういうのではなくて、とにかく追われている感じが抜けないのだ。人と一緒に働いていると特に。Slackが特に駄目だった。チャットツールで死ぬ思いをするとは正直思わなかった。しかしよく考えたらグループLINEとかも苦手だった。何のことはない、気軽な文字のやり取りが流れゆく様が苦手だったのである。
そんなこんなで、働く選択肢がどんどん狭まっていって今に至る。仕事をしていたこともあったから、ある程度の事務仕事やら手配やらはできるという気持ちがあるが、誇れる技術もないし、コミュニケーションが駄目になってしまうともう駄目だ。参った。
こういう状況でもできる仕事ってあるのだろうか。
こうやって延々愚痴のブログ記事を書いても特に誰か何か言ってくれる訳でもないけど、とりあえず記録として残しておこうと思う。何はともあれ生きるしかない。