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ただの日記。たぶん。

生きるしかない

東京に来てから8年経ったので記事でも書こうかな、と思っていたが、思えば8年てものすごく中途半端だな、と思い、まあいいか、と投げていた。
思ったより結構長くいるなあとは思うし、多分余程の事態が起きない限りもう東京を離れて暮らすこともないと思う。あと2年経てば大学時代から新潟で過ごした10年を抜くので、それが節目かもしれない。節目に何をするというわけでもないが。
東京は私にとっては悪いところではなかった。まあ私は住めば都タイプなので故郷への憧憬もあんまりない。というか地元に帰るたびに変化が激しすぎて、落ち着かない。皮肉だが東京にいる方が落ち着くという。薄情な性分である。

そしてまともに働かなくなってから3年である。意外と社会復帰への道程は遠かった。いや、社会にコミットしていない訳ではないので、今さら働くという形で復帰しなくても、とは言われることもある。まあそれもひとつの道かもしれない。
しかし、私は家事が壊滅的に駄目なので、専業主婦というものができない。努力でなんとかなれば良いのだが、もう諦めた。人間無理なもののひとつやふたつあったっていいじゃない。
勿論ひとりじゃないので諦めたら色々大変なのだが、でもなあ。やればできるというのはなかなかに詭弁で、人間向き不向きがあると思うのだ。私は家事が向いていなかった。それは生活には多大な影響を及ぼしはするが、究極、逆上がりができないとかそういうのと同じことだ。

延々と言い訳を書いてしまった。

しかし、どう働けばいいのかさっぱりわからない。働く試みはしたが、自分で自分を追い込んでしまい、比喩でなく死にそうになって辞めてしまった。周囲が嫌だとかそういうのではなくて、とにかく追われている感じが抜けないのだ。人と一緒に働いていると特に。Slackが特に駄目だった。チャットツールで死ぬ思いをするとは正直思わなかった。しかしよく考えたらグループLINEとかも苦手だった。何のことはない、気軽な文字のやり取りが流れゆく様が苦手だったのである。
そんなこんなで、働く選択肢がどんどん狭まっていって今に至る。仕事をしていたこともあったから、ある程度の事務仕事やら手配やらはできるという気持ちがあるが、誇れる技術もないし、コミュニケーションが駄目になってしまうともう駄目だ。参った。
こういう状況でもできる仕事ってあるのだろうか。

こうやって延々愚痴のブログ記事を書いても特に誰か何か言ってくれる訳でもないけど、とりあえず記録として残しておこうと思う。何はともあれ生きるしかない。

36才になった

タイトル通りだが36才になった。

女性の30代は厄年の連続である。酉年の私は数えでは37才の為、今年は2度目の本厄である。

4年前、大厄の年に結婚して、なんと言おうか順調なのは結婚生活だけではないかという気もする(夫がどう考えているかは知らぬ)。

厄年云々を心から信じる程信心深くはないが、30代というのは公私ともに責任を負う役割が振られていき、家庭を持ち子どもを育て社会でなくてはならない役割を担う、ということが求められ、その変化の激しさによって何かが崩れるのかもしれぬ、とは思う。

しかし、私は結婚はしたが子どもはなく、20代(いやむしろ10代...?)とあまり変わらぬ意識で過ごしている。私だけかと思ったが、私がこの人は大人だな、と思う友人の多くは「年齢に追いついていない」という話をしていた。

そんなものなのかもな、と近頃は思う。人はいくつもの面を持っていて(平野啓一郎風に言えば「分人」だろうか)、心理的物理的距離によってその貌を変えるのは当たり前だから。私でさえも一応、きちんとした振る舞いが要求される場所ではそれなりの振る舞いはできる(と本人が思い込んでいるだけかもしれないが)。それを考えたとき、どうしても「大人」にカテゴライズできない自分が残るのだと。

今まで他人に憧れたり嫉妬したり、常に他者との比較の中で生きてきた気がする。アイデンティティを外部の評価に委ねきっていたせいで、自分がどうありたいかなどすっかり忘却の彼方だった。私そんな良い奴でも優しくもないし、価値などないんだ、私を評価しているひとは絶対私の裏面を見落としている。一事が万事この調子だったので、大変生きにくかった。いや今も生きにくい。

しかし、ひとは別に私に対してそこまで要求しちゃいないんだな、ということに、この年にしてようやく、気付き始めた。36年間ずっと、というわけではないが、小学校に上がって集団生活の中で自分は異質だと誠にぼんやり気付き、常に他人の目を気にするようになってしまい、却って周りが見えなくなった。悪循環だ。

要するにありもしない他人の目に縛られて自分とかいう器が空っぽでとにかく埋めようともがいてきた結果が、今の自分だ。

誕生日に毎年豊富のようなものを書いてきたが、なんだかそれも他者へのアピールだった気がする。

だから今年は好きに生きるようにしようと思う。

それで離れていく人がいたらそれまでだ。

...くらい割り切れるほどにはまだなっていないが。

とりあえずアイデンティティを確立したい。

36年生きてきてやっとそこかよと思うと阿呆らしいが、やるしかあるまい。

最近文章がくどくなってきた。映画の感想を書きすぎたせいだ。

最後に渾身のほしい物リストを作ったので覗いていってください。いやむしろ贈り物ください。

今後ともよろしくお願いいたします。

僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意

 

 

佐藤優氏の読書本といえば「読書の技法」があるけれど、本書は池上彰氏がいる分若干ソフトな作りになっている気がする。

 

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 

でも要求しているハードルは中々に高い。

まあ池上彰氏も佐藤優氏も「自分たちのやってることを完全にトレースする必要はない」ということを何回も言っているので、できる範囲でやれば良いんだろうとは思いつつ。

自分を省みていえば、

新聞は全然読んでいない。彼らはやはり新聞を重要なソースと言いそれは間違いないと思うのだけれども、新聞を定期購読するのは意外とハードル高いんじゃないかという気もする。

私は情報収集を専らRSSに拠っているので確かに偏りはあるんだろうなあと思う。RSSのフィード自体(色々調整しているつもりだけれど)自分が選んだものになっているからその時点で入れる情報が自分に近いものになっている事は否めない。自分が目に留める記事ははてブホッテントリになることも多いので(もしくは既になっているので)自分の目にはてなブックマークというフィルタがかかっている感もある。やはり新聞は読むべきかもしれない。

大きく分けて新聞、雑誌、ネット、書籍、教科書の読み方が論じられており、それぞれ納得できて学びを得られる本だと思う。

しかし両名ともネットに対しては消極的な感じだな、ということを思った。確かに玉石混交だし時間泥棒でもあるとは思うのだが...それだけ慎重にならざるを得ないのが今のインターネットなのかもしれない。ネットは上級者のメディア、という事は心に留めておきたい。

雑誌に関しては佐藤優氏がdマガジンを使っていると述べている。私自身も先日登録してみたが確かにこれだけ読めるなら相当便利だと感じる。もう少し使ってみて感想を述べたいと思う。

 

こういう本は読んで「頑張ろう」と思うだけで終わってしまうことが多いのだが、多少は実践していきたい。多少は。

2017年をどういう年にするか

今週のお題「2017年にやりたいこと」

あけましておめでとうございます。

お題は、「2017年にやりたいこと」なのだが…。

これを為したいということが特にない。困った。

こうありたい、というものはある。

計画的な行動、思考の記録

割に行き当たりばったりな生き方で躓くことが多かったので、計画立った行動をするように心がけたい。

具体的に言うと手帳を使いこなせるひとになりたい。

私は手帳やノートの使い方が壊滅的に下手くそである。今はさすがに大まかなスケジュールはGoogleカレンダーで管理するようになったが、その前は書き出すこともなくほぼほぼ脳内でスケジュールを回していた。今思うと恐ろしい。

手帳にせよノートにせよ書き留めておくという習慣がなく、自分がふと考えついたことやら本の感想やら映画の感想が脳内から普通にこぼれ落ちていってしまう。

今年は自分をきちんと管理したいものである。

映画をたくさん観る

上昇期に入った10月下旬頃から映画を観に行くようになった。映画館での程よい緊張感が心地よいと感じられるようになったのは収穫だった。

今年は100本とまではいかないが、できる限り映画館で映画を観たいと思う。

本をたくさん読む

昨年は本によるインプットが途中で挫折してしまいほとんどできなかった。今年はできる限り読んでいきたい。

結論

今年は、インプットを増やして人生プランを立て直す年なのだと定義づけている。焦ることもあるし、暴走しそうになるときもあるかもしれないが、とにかく地道に進んで生きたいと思う。

 

2017年もよろしくお願い致します。

2016年の終わり

2016年が終わる。

この1年を振り返ると、

1-3月:上昇期

4月-6月:下降期

7月-10月上旬:どん底期

10月下旬-12月:上昇期

という感じであった。

夏のどん底期はもう何が何だかよく覚えていない。

何をするのもしんどかったし、本は読めないし、楽器を弾こうとしても集中力は続かないし、散々だった。

年末は少しずつ動けるようになってきたが、また下降してどん底に行くんじゃないかと危惧している。

2016年は特に何も為すことがない1年だった。本も結局あまり読まなかったし(読もうと思って買った本が積読状態で放置されていた)、書くこともしんどかった。音楽も楽しめない時期が続いた。

今現在はようやく先が見え始めて、頑張れるかもしれないと思えている。ただそう思ったあとで2回くらい酷い下降とどん底を経験しているので、油断ならない。中庸を目指したい。

来年の目標は規則正しく生きることである。

毎日を整理して暮らすことが極端に苦手だ。とにかく目についたものを手当たり次第やっつけていくタイプなので非常に効率が悪い。その辺を少しずつでもいいので改善して生きたい。

ブログは気が向いたら何か書けるようにしたいと思う。

来年もどうぞよろしくお願いします。

35才になった

35才というのは何かしら特別だと思っていた。

いやまあ30才もそんな感じはしていたのだが。

もう社会人としても中堅どころになって、キャリアを積み重ねていく時期。

子どもの頃考えた35才は圧倒的に大人だった。

ところが私は文字通り停滞した状態のままこの歳を迎えてしまった。

自分が大人としてやれているかどうかも正直自信がない。

こんなはずじゃなかったなぁ、と思う。

しかし、人生遅かれ早かれこんな事になっていたんじゃないかとも思う。

今まで感じてきた生きづらさを無理やり無視して歩いてきたツケなのかもしれない。

小さい頃から集団行動が苦手で、合わせることがうまくできなかった。

あまり学校生活には向いていないタイプだったと思う。うまく周りに溶け込めないまま理由もよくわからず、かといって我が道をひたすら行くには私は弱すぎた。

年を経るにつれて何とか生きる上で最低限の処世術だけは身に付けて社会に出たと思っているけれど、その処世術も付け焼き刃でしかなかったのかもしれない。

なかなかうまくいかないものだ。

35才。

焦る。これまでも毎日目の前の事で精一杯でキャリアプランなんてもの考えずにやってきたし、ひとより秀でた技術や才能もない。

何より受身で行動をしてこなかった。

これからどうやって生きたらいいのか全然わからない。行動しなければ、動かなければという焦燥感だけが先走って全然身体がついてこない。

どうしたものやら、と若干途方に暮れている。

 

誕生日には何かしら目標みたいなものを立ててきたけれど、今回はそれはなしにしようと思う。

とにかく生きて、考えること。

無理になにかをしようとしないで自分を見極めること。

強いて言えば自分を受け入れてやることが目標かもしれない。

 

以上、完全に独り言でした。

これからもどうぞよろしくお願いします。

2月に読んだ本

4冊。結局少なかった。

 

andhyphen's bookshelf - 2016年02月 (4作品)
あの日
小保方晴子
読了日:02月02日
評価3
王とサーカス
米澤穂信
読了日:02月08日
評価4
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後半殆ど読めていないのがわかる。
色々バタバタしてたけど、本はちゃんと読めたら良いなあ。と思う。
感想は全部ブログに書けたのは第一歩。この先も細々と書き続けたい。